ぼくらはみんな、死にながら生きている - 生き返ろう

思えば、アンパンマンの歌は感じが悪い。

ーなんのために生まれて、なにをして生きるのか、分からないなんて、そんなのは嫌だ。*1

個性、アイデンティティ、自分だけのなにか、自分探し、そういうものを求められながら育ったこの身に、つい重ねてしまう。

分からなくてはならないと、さまよう人もあるけど、分からなくたっていいじゃない。
自分の存在意義とはー、人生の意味とは−、自分らしさとはー、そんなこと考えたって、しょうがない。

本や映画、歌、ニュース、言葉を超える感覚や印象、新しいことを知るたびに、変化する私。
明日どう変わっているか、明日になるまで分からない。それが生きているということじゃないか。

死ぬともう変わらなくなる。
だから明日どうなるのか確実に分かる。どうにもならないと。なんせ変わらないのだから。

ー分からないなんて、そんなのは嫌だ。
そうは言っても、生きてるんだから仕方ない。それは死にたいと言っているのと同じじゃないか。感じが悪いわけだ。
おそらく、分からないとは生きているということで、分かるとは死んだということだろう。

ここで、養老孟司氏のいう「都市に蝕まれる自然」を連想せずにはいられない。*2

例えば、生きているのは自然なことだけど、都市はそれを蝕む。
この文脈では、企業というものが都市の例に適していると思える。

就活という行事を見ていて思う。
多くの企業にとって、社員は、なんのために生まれて、なにをして生きるのか、分からなければならないようだ。
分からないなんて、そんなのは嫌だ。困る。目的意識がない。採用しない。

企業にとって、社員は分かる存在でなければならない。
社員は「死んで」いなければならないのだ。*3

職を得るには、私はこのために生きている、もう変わらない、つまり私は「生きているようだが実は死んでいる」ので、安心して採用できると宣言する必要があり、生きる理由を無理に探して、ある人は「死んで」職に就き、ある人は「生きたまま」無職になる。

起業する人も死んでいる必要があるだろう。
「今日はコンサルタントですが、来週には魚屋になってるかもしれません」なんて言われて、誰か取引するだろうか。

生きるという自然が、企業という都市(文明と言ってもいいだろう)に蝕まれていると思う。

最近の若者はすぐに仕事を辞めてしまうと、よく言われているが、無理もないだろう。
死にながら生きるという矛盾に、耐えられる人はそういないはず。
新しいことを知り、新しい自分が出てきても、彼らのことは殺し続けなければならないのだから。

かつて己を殺して過ごすのが美徳とされた時代もあったけれど、いまではどうだろう。

よりよい在り方とは、私たちが生きることを認めるということではないだろうか。
それはすなわち、変わることをお互いに許し合うことに他ならない。

「ブレた」とはよく言ったものだけど、それは悪いことだろうか。
私たちは生きていて、変化する。状況も刻々と変わる。
ブレたっていいじゃない。生き返ってはいけないだろうか。
問題はブレたかどうかではなく「ブレた結果、新たに出てきた発想が、現時点で妥当かどうか」なのではないか。

ブレたのが叩かれるのは、みんな死んでいるから、出し抜けて生き返るなんて許せないんだろうか。
だったらみんな、いっぺんに生き返ればいい。
誰も働かなくなった。そんな時代があってもいいじゃないか。

アンパンマンの歌を思い出して、そんなことを思った。

*1:本当は「ーなんのために生まれて、なにをして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ。」という歌詞だった。太字の部分を間違えてしまった。読み替えても、意味は通ります。

*2:「逆さメガネ」だったか、「壁シリーズ」だったか。「唯脳論?」それとも「解剖学教室へようこそ?」。どこで初出だったか忘れちゃった。とにかく養老氏は、1990年代からの一連の著作で「都市化」について継続的に議論している。

*3:なにごとにも例外があるとは思う。